訪問日:2014/12/6
この日はバイクで上野村ツーリング。
現地の案内板を見ていると「旧黒澤家住宅」の文字を発見。
「どうせ養蚕農家の古民家があるだけだろ」
などと、はなっから相手にしていなかったが、写真を見た瞬間衝撃が走った。
「これ、板葺石置屋根じゃねーか!!!」
実は私、ちょっとした板葺石置屋根マニアなんです。
南牧村で板葺石置屋根が近代まで現存したという噂を聞き、今も残っていないかと探しに行った事がある。
結局、板葺は見つからなかったが、トタン葺石置屋根は数棟発見できた。
観光用に復元されたパチモン臭い柿葺石置屋根は昔に見たが、大規模で本格的な石置屋根は見たことがない。
こりゃワクワクしてきたぞ。
まるで興味が無さそうな友人を無理やり引き連れ、板葺石置屋根を見に旧黒澤家住宅へ向かった。
上野村の国道を逸れ、旧道の集落に入る。
国道のトンネル開通前は賑わった通りも、今では閑散としていた。
ここは簡単に言うと、江戸時代に山中領の上山郷を管理していた大総代の屋敷。
黒澤家は御巣鷹山の御林守も担い、幕府に鷹狩用の鷹の雛を献上していた。(御巣鷹山の地名の由来はそんなところから来ている)
なんと、旧黒澤家住宅は国指定の重要文化財。
説明書きを引用すると、
”旧黒澤家住宅の特色は、大規模な切妻造の二階建の大建築で、普通の民家と異なり、屋敷や玄関等に
大総代の住宅としての特色がある。茶の間は土間に面し、三十一畳半あり、その他各室意匠も良く、全部畳が敷かれている。
本建築は、十九世紀半頃の建築といわれ、二階の梁間が大きいため棟が高く、構造意匠に養蚕農家の特色がよく表れている。
約二百五十年余年の歳月を経ているが修築も少なく保存も良いので、往時を偲ぶことができる。”
との事です。
私は板葺石置屋根が見る為に訪れたものの、本当の価値は大規模な総代屋敷の歴史的建築にある。
屋敷内部は後述するとし、まずは裏手の山を上って石置屋根を見てみよう。
か、か、か、カッコいい・・・!!!!
切妻屋根に敷き詰められた石。
屋根全体に置かれている。
こいつぁすげえ!
板葺石置屋根の構造は、30cm程の栗の木の板を下部から重ねながら並べ、板が飛ばないように上に石を置く、というもの。
材料は屋根材の栗の木、重りの石、石や板を固定する青竹で構成され、
栗の木は山野に自生し、石は沢で拾い、竹は裏山などで伐採し、どの材料も周辺から容易に手に入る事から、山里では昭和三十年頃まで殆どの民家が板葺石置屋根を採用していた。
板は雨や雪で腐ってしまうため3年に1度葺き替えの必要がある。
葺き替え作業は数軒の相互援助で行うのが通例で、自宅の屋根の葺き替えにはご近所さんに手伝ってもらい、逆にご近所さんの葺き替え作業の時は手伝いに行っていた。
板葺石置屋根は北関東、北陸、東北で多く見られ、特に風の強い地域は板が飛ばされるのを防ぐ為に石を屋根に置き固定していた。
近年では、トタン葺、瓦葺、スレート葺が普及し、従来の板の葺き替え作業という大きな手間を省く事が出来たものの、古き良き板葺の風景は見られなくなってしまった。
尚、現在の板葺屋根は平成13年に葺き替え工事を行ったもの。
通常は3年に1度葺き替えなくてはならないので、現在の黒澤家住宅の板葺屋根は特殊は防腐処理を施したものと思われる。
旧黒澤家住宅に使用されている栗の木の割板は1100束(一束が何枚かは分からない)、石は3400個使用されている。
葺き替え作業の様子。
なかなか資料が少ないので、写真付きで説明してくれると大変助かる。
それでは旧黒澤家内部へ。
「四つの座敷」と呼ばれる、幕府の代官様が訪れた時に使用する客間。
欄間や襖などは部屋毎に異なる意匠を施している。
また、他にも吹き抜けの茶の間や三つの玄関など、見所は多い。
二階部分は昭和の時代に養蚕や紙漉きに使用されていた。
これは推測だが、江戸時代は平屋で、近代に二階建てに増築した気がする。
江戸時代の用途から近代の用途の変遷に合わせて改築を行っている筈なので、江戸時代の屋敷の様子も知りたいものである。
天井を見上げると板葺屋根の裏が見えた。
物凄い枚数の板が使用されていると分かる。
今回は、偶然穴場が発見でき、大変有意義な時間だった。
大規模な板葺石置屋根は一見の価値あり。
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おまけ
南牧村で石置屋根を探しに行った時の写真。
板葺は現存しないものの、トタン葺の石置屋根は発見できた。
北風吹き付ける北面のみ石を置いていた。
旧黒澤家住宅とは違い、作り物ではない本当の石置屋根。
この建物は空き家となっていたので今後が心配。
長野県では板葺石置屋根の民家が現存するらしく、いつか行ってみたいと思う。
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