訪問日:2014/4/27,他
群馬最大の秘境、南牧村。
土地の大半が山間地帯であり、川沿いの深い谷間を縫うように集落が形成される。
村には平地が殆ど存在せず、人々は山を削り石垣を作り僅かな平地を生み出し耕作や居住に充てていた。
そのため南牧村では石垣文化が大いに発達し、村内全域で見事な石垣を見る事が出来る。
今でも古き町並みや石垣が残りるものの、主要県道沿いはコンクリート製の擁壁が目立ってきた。
少子高齢化が進み土地の需要も少なる事から、この先南牧村の石垣文化が衰退するのは間違いない。
是非、雄大で見事な石垣と歴史ある町並みを見て貰いたい。
※上の写真は檜沢地区で撮影。
南牧村がどういう場所に位置するか、一目で分かりやすい写真を撮影した。
田舎と言うより、山、という感じ。
深い谷間にポツポツと見えるのが集落だ。
ここから見えるは(多分)砥沢・羽沢・勧能・星尾地区になる。
これらの地区は南牧村でも特に山間部に位置し、石垣が多くみられるのもこの深い山に佇むこれらの集落となる。
下仁田寄りの磐戸や大日向地区では平地が比較的多く、平地に反比例して石垣も少なくなる為、石垣を見るなら砥沢より西が望ましい。
ちなみに撮影場所は南牧村の大岩から。
標高は高くないが岩場が多く上級者向けの山なので行く人はご注意を。
江戸時代から昭和初期まで砥石の産地として栄えた南牧村。
主要産業が衰退し現在の人口は約2000人と激減したが、数十年前までは4倍の8000人以上がこの地で暮らしていた。
今の4倍の人口となると、単純に計算すれば住居や畑も4倍必要と考えられる。
全盛期は、今の景観よりさらに見事な石垣や住居、段々畑が見られたことだろう。
聞いた話だと、山の尾根まで段々畑が築かれ、頂上まで行くのに1時間も掛かったと言う。
人口が減り、高齢化を迎えた現在では、放置された畑が目立つ。
写真の樹木が生えてない場所は勿論以前畑だった場所だろうが、現在木が生えている場所も石垣があった。
今では杉や灌木や土砂に遮られ見えづらいものの、実際近づくと斜面まで幾重にも延びる石垣が残っている。
この地は日照時間が少ない。
深い谷間の集落に日光が光を差すのは昼近くなってからだ。
そして太陽が傾く頃には集落には山の影に隠れる。
そんな、生きるには厳しい土地。
立岩方面を望む。
西毛は妙義、荒船など岩山が多い。
石垣の材料の石は山に入ればいくらでも手に入る。
そんな立地条件も石垣文化が栄えた理由の一つと言えるだろう。
さて、山を下り檜沢集落にやってきた。
町を歩けばこのような立派な石垣が組まれた段々畑を至る場所で見られる。
先程の写真では段々畑の一段が平らであったが、もっと急傾斜の土地では平らな畑を作れない。
上記の写真のように要所要所に石垣を築くものの、農地は斜面のまま使っている。
雨で土が流れぬよう、耕す時には谷に体を向け、土を斜面の上に向かって掻き上げるようにクワを入れる「逆さうない」という過酷な方法が採られた。
この方法は屈むように耕すため農家は皆腰が曲がってしまうらしい。
場所を移してここは砥沢。
先程の檜沢の石垣と比べると石が丸みを帯びているのが分かるだろうか。
「南牧村の石垣」単に言っても全てが同じ石垣という訳では無い。
星尾の金石、大仁田の赤石、磐戸の椚石、砥沢の砥石の屑石など、場所によって様々な顔の石垣が見られる。
各地区の石垣の違いを見てまわるのも面白いだろう。
土地が少ないので道が超絶狭い。
主要道路の県道93号でさえ、対向車とのすれ違い通行が出来ない場所がある。
余談になるが、大岩登山の前日、三段の滝の駐車場で車中泊しようと夜中に車で向かっていた時、
駐車場を見逃し熊倉の奥地に行ってしまい車幅いっぱいの狭路で行き止まりに遭遇し、
Uターンも出来ずに深夜に数百メートルもバックで戻らなくてはならなくなった時は、あまりの大変さに泣きそうになった。
場所を移してここは星尾地区。
星尾地区を細かく分類すると中庭、大上、道場など色々な集落があるが、余所者の私は境界線が詳しく分からないので、県道201号とその支道の集落は全て星尾地区として記載する。
石垣を見学する場合、私は迷わず星尾地区をお勧めする。
この地区では、険しい山に抗わず山に寄り添って生き、自然と人との調和が取れた暮らしを、雄大な石垣と共に見る事が出来る。
また、歴史的にも貴重な古民家が多く残り、山と共に生きる日本の原風景を偲ばせる
。
家を建てるにはまず石垣を組む、畑を作るにも石垣を組む、ここでは何をするにも石垣が必要になる。
当然石垣は自分で組み「石垣を組めなければいい百姓になれない」と言い伝わるほど、石垣とこの地は切っても切れない関係にあった。
石垣は、この地の人々にとっては当たり前の光景。
町の風景として、特別な物ではなく、ごくごく自然に溶け込んでいる。
素晴らしい町並みで生きる人たちを羨ましく思う。
コンクリートには決して出せない温かみと力強さを感じた。
堅固な石垣に咲き誇る芝桜。
我が家への帰り道は春の回廊。
町の至る所で見られる、僅かな土地の合間に植えられた可憐な花々は、過酷な条件の土地に暮らす人々が見せる心の豊かさ。
単純な石垣の規模の大きさや古い町並みとの調和だけではなく、石垣と暮らす人々の穏やかな一面に、私はとても惹かれたのであった。
石垣に佇む満開の桜。
この道は車道でありながら異常な急傾斜。
九十九折に石垣を組み、上部の集落を繋ぐ。
決死の思いで完成させたであろうこの道からは、執念や苦痛などの負の感情は一切感じられず、むしろ温もりある優しさを感じた。
ただ、こんな場所に桜を植えたら根が張って石垣が崩れないだろうかと心配になる・・。
路傍にふと生える草花。
通る人の少ないこの地で可憐に咲き乱れる。
畑と言う生きる為の生産設備。
そんな場所に花を植える事が出来るのは、やはり心が豊かなのだろう。
石垣は自然の中に溶け込む。
古い町並みと石垣。
※南牧村の古い町並みについては別の機会に紹介しようと思います。
力のある家は大きな石で石垣を組んだり、縁起を担いで亀の子石を組み込んだりした。
地区毎に石垣の違いが見られるが、一軒一軒見ても石垣からこだわりや違いが見て取れる。
寺社などは村一番の石垣名人が特に大きな石で組んだ。
写真だと分かり難いが、巨大な石で組んだ寺院の石垣は圧巻で、あまりの見事な出来栄えに思わず唸ってしまった。
こちらも見事な石垣。
近くに寄るとその凄さが分かる。
岩on石垣on建物!!
土地が無いのは充分承知しているが、巨石の上にまで石垣を組んで建物を建てるとは・・。
すげぇ・・。
そして巨石と巨石の隙間にもビッチリ石垣を組み基礎を作る。
いや、これ凄いを通り過ぎてアホじゃないのか。
私が最初にこれを見たとき「バッカじゃねーのwww」と吹き出してしまった。
作った人絶対悪ノリしてるだろうこれは。
いやまあ凄いんだけど。
険しい山で暮らす人々は自然に抗わない。
巨石があってもそのまま使う。
このレベルの巨石があれば信仰の対象にされそうだが、この地は石が多いので完全スルー。
巨石の隙間に作られた車庫はあまりに自然すぎて、後から巨石が降ってきたようにさえ見える。
自然への抗わなさっぷりは留まる事を知らず、
もう、なんて言うか、
めりこんどる!!
よくもまあこんな場所に家建てたな。
石垣を見るとき「裏」からも見てほしい。
例えばこの家は正面から見ると石垣なんて全く見えない。
しかし裏手に回る事で、このように高く積まれた石垣に出会う事が出来る。
石垣に通る配管や、色が変わった石垣を見ると、改めて暮らしの中に石垣が密接しているんだと分かる。
近くのお爺さんと少しお話をした。
「石垣を見にきた」と言うと歓迎してくれた様子で、昔の話や良い石垣が見られる場所などを教えてくれた。
石垣や町並みの見学に時折観光客が来るようで、「俺たちにとっちゃ普段の光景だ」と軽く言うものの、お爺さんの言葉には自分の故郷に誇り持っているように感じた。
「畑を近くで見ていいか」と尋ねると、快くOKをくれた。
現在では高齢化が進み、ほとんどの畑は何も植わっていない。
昔は蒟蒻が高い値で売れ、下仁田ネギと共に段々畑に多く植えられていた。
星尾地区はこれにて終了。
石垣の見学は、車では絶対に不可能です。
車じゃ路地は勿論入れないし、車が通れる場所でも路肩が存在しないので車を降りて石垣を手で触れる事は出来ない。
なので、広い場所までは自転車を積んだ車で行き、路地は自転車や徒歩で散策すると良いと思います。
バイクでも散策できるが音がうるさいと住民が嫌がると思うので、まあ自転車が最善でしょう。
歴史的町並みが残り観光資源には申し分ないが、道が狭く車が入れず満足な観光が出来ない。
そこで、散策用に村で原付を貸し出したり、定期的にガイドツアーを開催したり、散策マップや見所を記載したパンフレットを作れば我々観光客が来やすくなると思うが、このような観光は大衆受けが悪そうだから難しいだろうか・・。
町から目に見える石垣だけが南牧村の石垣では無い。
昔は今の4倍もの人々が暮らした土地。
当然山は石垣が積まれ畑が作られていた。
そのため、山に入ると石垣が大量に発見できる。
誇張でも何でもく本当に、南牧村の全ての場所に石垣があると言ってよい。
適当に山に入れば写真のような立派な石垣がそこらじゅうで見られる。
人の手が届かなくなって今でも、堅固な石垣は一切の崩落無く、昔のまま山の中に佇んでいた。
場所は変わり、ここは間坂地区。
高い段々畑が残る土地。
さほど広くない畑だが、あまりの急傾斜のためモノレールが導入されている。
更に奥地、馬坂地区。
実はここ、長野県なんです。
ここはちょっと面白い土地で、行政区分こそ長野県臼田町だが臼田町中心部から大きく離れている為、電気や電話や買い物など群馬側に依存している。
馬坂地区の西には田口峠が有り、通常は峠の尾根に沿って県境が設定され馬坂地区も群馬県となるのが一般的である。
では何故中途半端な位置に県境が設定され馬坂地区だけが飛び石のようになってしまったかと言うと、
江戸時代の役人が藩の境を決める際に「長野側と群馬側から同時に峠を目指し、出会った場所を境をする」という取り決めが出来たらしい。
長野側の役人は馬を使い、群馬側の役人は牛を使って峠を目指した為に、足の速い馬を使う長野の役人が峠を通り越し、中途半端な場所で出会ってそこが県境になってしまったと言う。
という事で厳密には長野だが、南牧村の石垣の風景として馬坂地区も合わせて紹介する。
ある南牧村の老人に「南牧村で一番凄い石垣はどこか」と尋ねると「馬坂地区の段々畑だな」と答えてくれた(間坂地区と言ったのかもしれない)。
それがこの石垣。
十数段の石垣が天高く積まれる。
この地区はあまりに山奥の為、今でも自給自足の必要がある。
そのため、段々畑の石垣は現役で使われ、所謂「生きた石垣」が見られた。
「耕して天に至る」とはよく言ったもので、厳しい環境の中、人々は自然と向き合い、天まで届きそうな石垣を築き、必死で生きてきた。
それは単純に生きる為の手段としてはではなく、そこに暮らす人々の誇りを感じた。
築いてきた物は石垣だけでなく、天まで届きそうな誇りだんだと、ちょっと上手い事を言って締めの言葉とする。
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