訪問日:2015/1/24
上毛かるたでお馴染み「沼田城下の塩原太助」
このフレーズは群馬県民なら誰しもが聞いた事があるだろう。
しかし、「塩原太助って何したの?」と聞かれれば返答に窮してしまう人も多い。
かく言う私も塩原太助の名は知るも、何を成し遂げた人かは分からない。
ならばと、塩原太助巡りと称して彼の足跡を追ってみる事にした。
まず太助の肖像画から見てみよう。
まあ何というか、上毛かるたの「ぬ」の絵柄がこれじゃなくて助かった。
おっさん札の内村鑑三、新島襄、田山花袋、新田義貞、船津伝次平らと見分けが付かなくなってしまう。
これらの看板は、みなかみ町の塩原太助記念公園内にある。
「沼田城下の塩原太助」と言いながらも、出身はみなかみ町(旧新治村)なのだ。
沼田城からは十数キロ離れているが、ここも沼田城下に含まれるのだろうか。
太助の生い立ちをざっと紹介すると、
1743年に新治村の農家に生まれた太助は、義理の母にいじめられ十九歳の時に家を飛び出し江戸を目指した。
その際の愛馬「あお」と別れのシーンが上毛かるたの絵柄になっている。
道中、榛名神社の宿坊でお世話になり旅銭を借り受けながらようやく江戸に着くも、なかなか奉公先が見つからず、遂には橋から身投げを図った。
その時に「早まるな」と助けてくれたのが炭商の山田屋善右衛門であり、その縁で太助は山田屋の下で奉公する事になる。
太助は「奉公人の鏡」と称される程真面目に働き、奉公してから23年後、炭の計り売りで独立を果たした。
商売の才があった太助の事業は大成功し、巨万の富を稼ぎながらも謙虚に暮らし、道の補修や常夜灯の設置を始めとする様々な公益事業に私財を投じた。
と言う人。
なるほど、塩原太助って凄い人なんだなぁ。
今まで知らなかったのが恥かしい。
明治に入ってから「塩原多助一代記」が出版されベストセラーになったり、その後も歌舞伎や落語も演目で度々扱われている。
豊臣秀吉の太閤記と同様、農民が大出世を果たすサクセスストーリーとして人気が高く、いつか私もちゃんとした本で読んでみたいと思う。
さて、塩原太助記念公園内を散策すると、あの名シーンが銅像で再現されていた。
これはまさしく上毛かるたの「ぬ」だ!
生の「ぬ」だ!
愛馬「あお」との別れ。
太助は新治を発ち、江戸を目指す。
公園内には「太助神社」もあった。
豪商塩原太助翁にあやかり、商売繁盛や出世の御利益があるとか。
公園内には直売所も建てられている。
しかし私の目的は直売所ではない。
こちらが目当て。
直売所の隣には「塩原太助記念館」が併設されている。
入館料は300円、直売所でお金を払って入館。
残念な事に記念館内部は撮影不可なので写真はない。
言葉で内容を説明すると、ビデオや年表で太助の生立ちを学んだり、太助の公益事業の紹介したり、炭商売の説明や、太助が使った品々の展示がされていた。
前述した生立ちは少々簡単に書きすぎているが、実際はもっと様々なドラマがあり、苦労し、知恵を絞って成功したのだと分かる。
塩原太助について詳しく学べるので、太助巡りをするならば一番最初に訪れるのが望ましい。
公園を出て北に100mほど歩くと、塩原太助の生家がある。
今も住民が暮らしてる民家なので見学は出来ないが、ここが太助の生まれた場所だ。
続いては国道17号を挟んだ公園の反対側にある「太助ドライブイン」。
北毛民なら「太助饅頭」を知らぬ者はいないだろう。
かの有名な太助饅頭は、実はここで作られていたのだ。
名前の通り塩原太助が商品名の由来だが、恥ずかしながら私は未だに食べた事がなく、北毛民の端くれとして、この機に一度太助饅頭とやらを食べてみたいと思う。
上州名物、数々あれど。
太助饅頭の右に出るものなし。
結構あると思う!
取りあえず太助饅頭下さいな。
太助饅頭!
おー、なるほど。
しっとりした皮の中に小豆の触感が残る粒餡がギッシリと入っている。
決して甘すぎる事なく、ちょうど良い。
初めて食べながらもどこか懐かしい味だった。
塩原太助馬つなぎの松
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塩原太助巡り、続いては場所を大きく移して高山村。
太助が江戸に発つ日、愛馬あおを松の木に繋ぎ別れを告げた場所へ向う。
馬つなぎの松は、高山村とみなかみ町の境界の金毘羅峠にあるのだが、これがまた非常に分かり難い。
赤根峠を北上する時、トンネル手前で旧道に入り、途中で林道金毘羅線に乗り換えて道なりに進むと辿りつける。
駐車スペースはあるので車で行けます。
林道の先に、鳥居が現われた。
馬つなぎの松はどれだろうか。
祀られていたのは男根岩だった。
今日は男根岩目当てじゃないのでスルー。
鳥居から少し奥に進むと案内板を見つけた。
残念ながら初代の松は平成18年に枯れてしまい、今の松は2代目らしい。
そしてこれが馬つなぎの松だああああああああ!!!
愛馬「あお」をここの松に繋いで別れたと言う話だが、あおはその後無事に家まで帰れたのだろうか。
どうせここで別れるなら最初から家で別れれば良いし、馬に荷物持たせるなら江戸まで連れてった方が良いし、せめて松に繋がない方がよかったのでは・・?
十数メートル離れた場所にも馬つなぎの松があった。
どっちが本物なんだ・・。
天神峠の石灯篭
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更に場所を変え、塩原太助が寄進した天神峠の石灯篭を見に行こう。
榛名山から天神峠へ登る途中、高さ7mの大きな石灯篭が見える。
これは実は塩原太助が寄進したものなのだ。
太助が江戸へ向かう途中、真っ暗な天神峠で心細い思いをした経験があり、峠を越える人々の為に私財で作ったと言われる。
常夜灯として使われ、江戸時代に峠を越える人々の道標になった。
この場所以外にも榛名神社で数基の石灯篭を寄進したらしい。
とても興味深かったのが、石灯篭に書かれた落書き。
江戸時代の落書きが今も残っている。
屋号を書き入れたものが多いのは商売上手な太助翁にあやかって商売繁盛を願ったものだろうか。
他には「富國日光道太田町大光院」と、太田金山子育て呑龍で有名な大光院の文字があったりした。
特に印象的だったのが、一枚目の写真の「炭ヤ」の文字。
この文字は、炭商売で成功し、公益事業に私財を投じる太助翁を称えたものか。
なかなか粋な落書きをするじゃねーか。
榛名神社の塩原太助奉納玉垣
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塩原太助巡り、ラストは榛名神社。
太助が江戸に向かう途中、食料が尽きた太助は榛名講の宿坊に助けを求め旅銭を借り受けた。
事業で成功した後、太助は恩返しに榛名の宿坊や神社へ多額の寄付を送り、榛名講存続の大きな助けとなった。
その寄進した中の一つが榛名神社の玉垣。
これかな、太助の玉垣は。
文化五年(1808年)に奉納された玉垣、当時のままだとすれば200年前のものになる。
何度も来ている榛名神社だが、太助が絡んでいるなんて今まで気が付かなかった。
知れば知るほど「すげぇ」となる塩原太助翁。
彼が残した功績は膨大で、ふとした旅先でも太助の名を見かける事が出来る。
今回の塩原太助巡りで、今まで知らなかった素晴らしい群馬の偉人に出会えた事を嬉しく思う。
日も暮れ、太助巡りもこれにて一幕とする。
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