訪問日:2015/12/19
先日の
高崎丘陵の百庚申巡りに続いて、百庚申巡り二件目。
今回は下仁田の百庚申を訪ねる事にする。
参考サイト
群馬の旅【下仁田の百庚申 編】 - にっぽん旅行記
下仁田町ホームページ : 町の文化財(下仁田戦争跡など)
清水沢の百庚申
まずは下仁田町西野牧の「清水沢の百庚申」へ。
最初にしてクライマックスなので、一件に絞って訪れるならここをお勧めする。
庚申塔がいっぱいあるぅぅぅぅ!!!!
すっげぇぇぇぇーーーー!!!!
他所に行けば一体一体がエースを張れそうな立派な庚申塔が、こんなにも多く集めれている。
しかもここは結構な山奥、よっぽど信仰に篤く、資金力もあったのだろう。
この地で百庚申が形成されたのは文化十五年(1818年)、
帰ってから知ったが、「発願から建立までの経過が刻まれた碑」もあるらしく、次回行く際は読んでみたいものだ。
これだけ多くの庚申塔があるが故、その多様性も見所の一つ。
上記の画像は三日月型の青面金剛、三日月の形状は恐らく月待信仰を意味し、月待信仰と庚申信仰とが混合されたのだろう。
この形状の石仏を見るのは初めてなのでテンション上げ上げ。
書体は隷書だった。
梵字の石仏。
上から
- バク (釈迦如来)
- ウン (青面金剛)
- バーンク (大日如来)
を表す(たぶんね!)
これは全く読めない。
宇宙文字です(違います)
こちらは以前は極彩色の石仏だったと思われる。
碑文の溝に青や赤の塗料が残っている。
昔の様子も見てみたい。
そして仏像もあります。
等々、実に多様性に満ち、長く楽しめる事間違いない。
一角に小さなお堂がある。
この中には激レア板碑が納められているので一見すべし。
案内板には「町内の板碑中の逸品」と書かれていた。
お堂の隙間から覗くと板碑が見えた。
案内板によると「建治二年」と記銘があるらしい。
・・・つまりは1276年!
鎌倉時代の激レア!!
そんな具合で大満足の百庚申でした。
それでは次に行きます。
伊勢山の百庚申
こちらは下仁田市街地からほど近い場所にある、伊勢山の百庚申。
何度か通ってる道だがこの場所に気が付いたことが無い。
まあ当時はあまり石仏に興味が無かったので気に留めなかっただけだろうが・・。
興味事が増えると視野も広がるものである。
中央に鎮座するひときわ大きな庚申塔。
親庚申だろうか。
親庚申の右手側の金石文には、当時の南牧村黒滝山不動寺住職である月船による「庚申始末記」が刻まれており、庚申の由来が述べられている。
伊勢山の百庚申は所謂「巡礼空間」が形成され、参道脇に並ぶ庚申塔を参拝しながら小高い丘をぐるっと一周できるようになっている。
石仏は古いもので元禄七年(1694年)、新しい物で文政十年(1827年)と、建立の年代にバラつきがある。
つまり、長い年月を掛け、また多くの人が関わって徐々に百庚申が形成された事になる。
今ではあまり重要視されていないものの、古きより地元民に大事にされている百庚申と言える。
そんなこんなで、ひとまず下仁田の百庚申巡り終了!
この辺りは意外と信仰心が強いのか、町を歩いていても様々な場所で石仏が見られる。
下仁田の新しい一面を知ることが出来た。
※
この二つの他に、「虻田の百庚申」にも行こうと思っていたが、WEB上に場所の記載が一切無く、虻田地区をうろうろしたが見つからなかった。
場所が分かればリベンジし掲載するつもりだ。
H28.8.16追記
虻田の百庚申について、多くの方が情報を下さいました。
H28年5月に行ってきたので追記します。
虻田の百庚申
場所が判明したので再訪。
どうやら県道沿いに看板があるらしく、私が想定していた場所と全然違っていたので見落としてしまっていたようである。
「百庚申塚入口」
看板、ありました。
民家の脇の細い路地を進んでいくと確かに庚申塚が存在した。
中央には高さ1.5m(台座含む)ばかりの親庚申が鎮座し、背後の斜面と周囲を取り囲むように庚申塔が立てられている。
嘉永七年(1854)に100体の庚申塚が完成し、その後も昭和期まで数体建立され現在では計108体の庚申塚を形成している。
正直あまり期待していなかったがこれは期待以上の規模。
一体一体が大きく敷地な小さいながらも斜面全体を使った立体感のある配置、集落を見守るように建てられているのもポイントが高い。
下仁田の百庚申は高崎観音山丘陵のそれと比べてサイズが大きく、山あいの集落でありながら信仰がとても篤かったのが窺える。
小規模な石仏群は下仁田の至る場所で見られるが「下仁田の百庚申巡り」としてはこれにて終了とする。
県内に無数に存在する百庚申を全て紹介するとキリがないので、取り分け特筆する庚申塚があれば本サイトにてまた掲載しようと思う。
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