訪問日:2015/12/13
近頃、石仏に興味を持ち始めた。
例えば、街道の追分に一体の道祖神があったとする。
そこから見えてくるのは、現代では判別が付かなくなった集落の境界や、その土地の信仰、歴史など、それだけで様々な事が推測できる。
江戸時代から石仏が爆発的に増えるが、その多くは庶民たちが費用を出し合って石工に依頼した物であり、そういった動きは政治色の無い民間中心の信仰だったと言える。
石造物は何百年経っても朽ちずに残り続け、人々から忘れられた路傍の石仏がものすごく貴重だったりするのも珍しくない。
そんな面白さがある石仏だが、特に庚申塔が私の中でブームとなっている。
庚申信仰は中国の道教の三尸説が元となるが、日本に伝来してから仏教や神道の影響を受けたり、民間信仰にありがちの「何でも崇めて御利益を願う」的な発想で、本来の道教の信仰とは少々違いが見られるが、
その日本人の得意とする魔改造文化全開のごった煮の信仰が、いかにも日本らしくてなんだかとても惹かれるのだ。
庚申塔は日本全国に分布しているが特に関東圏に多く、とりわけ群馬県では庚申塔を百体集めた「百庚申」なるものも多く見られる。
百庚申とは、一か所に庚申塔を百体集めた庚申塔群であり、「多ければ多いほど御利益があるだろう」と言う大ざっぱな感性の代物である。
インターネットで「百庚申」と検索すると何故か群馬県のそればかりがヒットし、群馬県特有の信仰の偏向があるのか、または単に百庚申を取り上げる奇特な人が群馬県民に多いのかは定かではないが、ともかく、群馬県には百庚申が多いのだ。
前置きが長くなったが、今回は「百庚申巡り」と題して、高崎観音山丘陵周辺の庚申塔を見て周ることにした。
乗附の百庚申
まずは「乗附の百庚申」に訪れた。
ここへのアクセスは
日本すきま漫遊記の
乗附の百庚申を参考にさせて頂いた。
百庚申の名の通り、約百体の庚申塔が集められている。
ほとんどは江戸時代に造られたもので、碑文は長い年月で削られ見にくい。
庚申塔以外の石仏も混ざっている。
文字が彫られただけの石仏だがメインになるが、仏の姿を模ったものも見られた。
固い自然石に彫られたものは今もはっきり読める。
天明八年(1788年)とある。
館の百庚申
続いて、館(たて)の百庚申。
現地の案内板によると、寛政十年(1798年)から寛政十二年(1800年)に建立されたもので、庚申の文字を書いた書家の資料としても貴重である。
参考サイト
館の百庚申 | 高崎市
先ほどの乗附の百庚申とは違い、「一か所に庚申塔を集める」だけではなく、庚申塔は参拝路に沿って配置され、それを一周する事で全部の庚申塔を拝めるようになっている。
「日本すきま漫遊記」の管理人様の言葉を借りると、庚申塔の「巡礼空間」が形成されている。
多くは土砂に半分埋もれ、道路の開通などで今では約60体を残すのみ。
しかしながら力強い立派な文字が刻まれ、一つ一つの庚申塔も大きい。
上奥平の百庚申
最後は観音山丘陵で一番の見所、上奥平の百庚申。
県道203号を沿うようにして庚申塔の参拝路が敷かれ、約200mの区間に120体程度の庚申塔が置かれている。
以下参考サイト。
上奥平の百庚申 | 日本すきま漫遊記
上奥平百庚申塔 | 高崎市
寛政十二年(1800年)に当時の有力者、茂原三郎左衛門が建立を指示したと言われる。
それぞれの庚申塔は個性に富んだ造形をしており、文字の書体も楷書、行書、草書、隷書、篆書、異体文字など様々で見ていて飽きない。
長い間大切にされていたのが分かるような状態の良さ。
この非日常的な空間を体験したら、その信仰の篤さも納得してしまう。
最高地点には親庚申が配置され、これがまたデカいことなんの。
上奥平の土地自体が結構な山なので、これだけ大きいと運びいれるのも相当難儀しただろう。
台座を抜いてもゆうに2mは超える高さ、思わず感嘆の息を漏らしてしまう。
親庚申の周りに並の庚申塔をふんだんにあしらった贅沢な庚申塔群。
上奥平の百庚申は最後まで見所たっぷり。
これらは私の乏しい知識でも大いに楽しめた。
しかし知識を深めれば深めるだけ楽しみは増すだろう。
次回は下仁田の百庚申を巡ります。
H28.3追記 :
下仁田の百庚申巡り 更新しました(庚申だけにね!)
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